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ゆがめられた地球文明の歴史
「パンツをはいたサル」に起きた世界史の真実
(栗本慎一郎/技術評論社)
  2012. 9. 6 (Thu.) - 11. 27 (Tue)

ゆがめられた地球文明の歴史2005年に出版された栗本著「パンツを脱いだサル」(現代書館)を読んでかれこれ7年、感想文を書こう書かねばと日々思いつつここまで書きそびれたままずるずると幾星霜。さらに本書(1,580円+税)を読み終えて早3か月、このままでは同じ轍を踏むことになりかねなくなってきました。
そこでちょこっとずつでも書いていったものを、ここにまとめておきます。
まずは、裏表紙にかかる帯にも書かれている第1章からの抜書き。

驚くべきものは、物と人に満ち溢れ、住む場の地球さえ壊しそうになっている現代へと導いた「一種の病気」である文明の発端である。

市場があまねく社会を覆いつくす近代市場社会を産んだ市場の発端がポランニー由来の経済人類学の一大テーマであるのですが、栗本経済人類学はアメリカでの客員教授時代を経てその対象を市場から文明へと広げられたのが1980年代末。21世紀に入って、その源流をメソポタミア文明に先立つ南シベリアと特定されるに至ります。

「始まった栄光と苦難の道」と題された第1章では、まずメソポタミア文明を概観しつつ、その起源に迫ります。その前にたいへん重要なこととして文明が何ものであるのかを定義されています。これすなわち、

一定の時間的継続を持ちいくつかの文化と地域をまとめる諸文化の総合を文明という。

とのことです。そして、この「文明」こそが「しばしばわれわれの社会にとって死に至る病の発端であったかもしれないのだ」と述べられておられます。
まえがきなども含めて繰り返し欧州と中国中心史観でゆがめられた歴史学についての批判がしつこいほど出てくるのですが、既存の歴史学がヤクザ抗争史としての政治史に、少しの文化史を多少の進歩史観をこめて記述されて事足れりとする凡庸な歴史屋によるものであるといくばくかでも感じる我々にとってはもっともなことであります。
それはともかく「死に至る」文明の端緒が、他のどこでもなくシュメール都市国家群が出現する紀元前3300年ごろのメソポタミアにあることは発掘調査によっても明らかなことです。ここではじめて巨大建造物、文字使用、利潤を求める外部との交易、そしてメシアニズム宗教がひとところに出現したのです。

文明の本当の始まり ミヌシンスク文明

そんなわけで今風に我々が言うところの「経済」が誕生するのです。つまり、シュメールが始めた過剰生産物の貯蔵およびその後の分配システムが、社会に「成長」という病の要因を植え付け、現在の世界市場社会に直結するというわけです。
そして諸民族が混交して「経済」の痕跡を刻むメソポタミア文明の王朝興亡史を概観したのち、さらにその震源、シュメールの起源を求めて第2章「移動と遊牧と宇宙観と文明の本当の始まり」へ。中央アジアのミヌシンスク文明へとさかのぼります。
ここで散々繰り返されるのは、「シルクロードなどなかった」論であります。あったとしても、その北の草原の道、さらにその北の「本当の」草原の道を政治的事情などで通行できずに致し方なく悪路を選ばざるを得なかった漢民族らによるその後の誇大史学というわけです。

真のシルクロード
図1 真(北)のシルクロード 「シルクロードの経済人類学」(東京農大出版会)p8より

紀元前三千年ごろから始まる青銅器文明が四大文明の曙なのですが、それは別個に始まったものではなく、ミヌシンスク文明を起点として本当の草原の道を経由して広がっていったものと考えられます。
シュメール都市国家群の起こる数百年前、青銅器文明であるミヌシンスク文明の最初期に位置づけられるアファナシェボ文化が起こります。これが、人類文明の起源とされています。そして、青銅器およびその形成に不可欠な蜜蝋の伝播が本当の草原の道を通じて行われたと考えられるわけです。
畢竟、人類史は石器、青銅器、鉄器の3つにしか分けられないのですが、後年鉄器を広めるヒッタイトの出自も同じだと考えられます。また、シュメールが衰えた後は、スキタイ人が現れ東の飛鳥から西のゲルマンまで、文明を新たな段階に移らせ、世界に文明という名の病を拡大させます。
つまるところ、すべては南シベリアから西アジアにかかる草原に始まり、起源は一つだと言えるわけです。

「ヨーロッパ」を生み出したパルティア帝国

第2章までで文明の源流ミヌシンスク文明にたどり着くや、第3章「世界史の柱・西ヨーロッパ」から歴史がまた進み始めるのですが、ここでも真実は隠されたままになっているようです。
パルティア帝国教科書的には「オリエント」の文化文明がギリシア・ローマを経て西ヨーロッパに伝播されたということになっていますが、それは支流に過ぎず、ミトラ教(民衆はゾロアスター)の国で前2世紀から2世紀に栄えたパルティア帝国が西ヨーロッパを作った、と述べられています。
本書では述べられてなかったり軽く触れられてる程度ですが、キリスト教がユダヤ教の新興宗教ではなくミトラ教の新興宗教であるという観点や地域的に現在世界を支配するアシュケナージユダヤの母国カザール(ハザール)帝国と一部領域が重なるなどの理由から、カザールとともに世界史の空白地帯とされているところです。また、中国史と比べて記述が極端に少ない北方騎馬民族同様、騎馬遊牧民特有の非定住・不文律・中央集権ではなく連合制、また双分制などの政治・文化的特色が歴史家をしてさぼらせているという歴史学のヘタレな事情もあります。「土地」ではなく「人」を支配する遊牧民族の国家観もこの状況を悪化させているようです。
それはともかく、このパルティアの版図拡大において、東西交易が発達し、後にマニ教を産む宇宙観が構築されたのでした。

つねに「異端」を創出できるアタナシウス派キリスト教

ゲルマン族大移動世界史に埋もれたパルティア帝国の版図において発達した文明や宗教観のなかから、白子化したゲルマン人は、フン族主流から追われるように(初期には北ヨーロッパから)西ヨーロッパに「移動」します。同時に文明の中心からは辺境にあったキリスト教がパルティアのミトラ教文明に押される形で西へ広がり、「ヨーロッパ」の原形が形成される条件が整います。
経緯については詳述されていないのですが、なぜかオカルト色強いアタナシウス派キリスト教が正統とされ、つねに「異端」が生まれる二重構造が形づくられたこと。そして、次章第4章「「遅れていた」地域・西ヨーロッパ」で詳述される「ケルト人」の謎。ヨーロッパ原住民についてはまったくと言っていいほど研究が進んでおらず、十把一絡げで「ケルト人」と称されるのですが、彼らを森においやってできた「二重構造」。
こうした内部に持つ二重構造が案外珍しいことで、これが経済成長という病の発現要因とみるのが経済人類学的知見なのであります。

西欧中心進歩史観の真相

アタナシウス派キリスト教を正統として、根拠薄き正統と根拠強き異端との対立構造を生み出し、異端を政治的暴力的に打ち砕くことを正当とする態度を持ちえたヨーロッパゲルマン人ですが、第4章「「遅れていた」地域・西ヨーロッパ」でその歴史が一気に語られます。
ケルト人と十把一絡げのまま研究されない原住民の存在、混成人種だったフランク族による西ヨーロッパ支配、先進宗教ミトラ教や非アタナシウス派社会に強引に異文化たるアタナシウス派を持ち込んだことによる交易(経済)の発展、領土的関心薄い遊牧騎馬帝国フン族(西匈奴または北匈奴)「撃退」の真相、トゥール・ポワチエ間の戦いでウマイヤ朝自滅の「神風」、愛人の屋敷を王宮にしたんで超豪華な古城を残す聖俗兼任諸侯、賢明な読者諸兄姉ならご存知な十字軍の実態、ヨーロッパ都市の特殊なあり方(市民権を持つ「市民」は千人程度)、新知識の「輸入」であって「復興」などではないルネサンスの実態などなど、ついつい染みこまされてる西欧中心史観の足元をすくうかのような記述がこれでもかと続くのでした。

世界の中心だった中央アジア

西欧中心にゆがめられた世界史についての記述が続いた後、最終第5章「アジアの共生的「発展」」に入ります。ここでは匈奴、大月氏、鮮卑、柔然、突厥といった、本当の草原の道を支配した世界の中心たる中央アジアの遊牧騎馬民族帝国を中心に記述され、8世紀ごろに最盛期を迎える東のキメク汗国、西のカザール[ハザール]帝国にたどり着きます。
このへんの詳細は、前作「シルクロードの経済人類学」(東京農大出版会)で詳述されています。
カザール帝国と周辺諸国(9世紀頃)領地ではなく「人」に対する国家意識や連合制、移動性などの特性から現代の国家観では理解しづらい遊牧帝国について述べられるとともに、中華思想によって歴史をゆがめた司馬遷の悪口で盛り上がります。
現在のわが国もたぶんに(日本の)司馬史観によってゆがめられた歴史言説やドラマに出くわしますが、古事記、日本書紀を引き合いに出すまでもなく、古代において「歴史」は学問にあらず「政治」だったわけです。多少の史実は押さえていたとしても、全130巻の歴史書をでっち上げ、漢の正当性とともに周辺民族・国家を貶めたのが司馬遷なわけで、それを利用する中華思想の歴史家と、ヨーロッパとアジアが別々に「発展」したことにしたほうが都合がいいヨーロッパゲルマンの歴史家によって現在の「世界史」が構築された成行きがひしひしと伝わってくるのです。

その後、漢が一時を除いて匈奴の朝貢国であった事実や、隋も唐も北方騎馬遊牧民族出自の王朝であることなどを交えつつ、北方ユーラシア草原帝国の興亡史を軸にアジア史を概観した後、まとめに入ります。
つまるところ、東洋と西洋は別々に「発展」しつつ時折の衝突や交換があったというこれまでの考え方は、はっきり間違いであること。そして、歴史は中央アジアを中心とする騎馬遊牧民族の動きを基軸にして「同時に」展開されていた、という史観が提示され唐突に終わります。

ユーラシア西部の国家の変遷1
ユーラシア西部の国家の変遷2
ユーラシア東部の国家の変遷
とくに出典表記のない図版は同書より

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