名選手列伝(03/07-10+05/11)
0-10
11-20
21-30
31-40
41-99

MagicNumber
優勝
0背番号[0]の名選手列伝
少年隊の一角中野佐資。ウェスタンリーグの主軸だったが、村山によって13番から球団初の0番に変えられ、さらに赤い手袋の使用を義務付けられ外野の定位置獲得。オープンスタンスから踏み込む打法で死球多数。神宮でプロ初ホームランを打った翌日に第2号。が、プロ通算は30本弱。亀新の台頭で出番減り引退。
日本球界初の0番長嶋清幸。広島で大活躍の後、中日、ロッテでくすぶってたところを金銭トレードで獲得。代打などで蝋燭の火の消える前の最後のきらめきを放つ。引退後、ずっとコーチで在籍。03年は一塁コーチなのでテレビでしばしば拝見したものの星野辞任とともに退団。
あご吉吉田浩。長くウェスタンの主軸打者を務めるも一軍半から脱せず。第3次吉田義男監督のときに一時左の代打の切り札あるいはスタメン出場でそこそこ活躍したが、F1セブンに押されいつの間にやらそのポジションは平下に取って代わられ02年星野大量リストラで退団。
野口とともに坪井らと交換で日ハムからやって来た明大出のガッツマン中村豊。04年以降は鳥谷起用のあおりで出場機会減るが、05年たまの出場で4割台キープ。誤審だらけの9月7日ナゴヤドームの試合を決めて優勝を確信させた決勝ホームランで永遠に球史に名を残す。
64番から変更の庄田隆弘。もっぱらウェスタンリーグで活躍。
いかり肩の名手前田大和が高卒4年目ぐらいから守備固めとかで一軍に定着し66番から変更。鳥谷や上本、西岡らのいる二遊間から離れセンターで多くスタメン出場。日本シリーズでもファインプレー連発。インハイをぽーんと一塁後方に打ち上げる悪癖で打力上がらず左打ちにも挑戦するも徐々に出場機会減って横浜にFA移籍。
走攻守すべてちょっと惜しかった木浪聖也。大学・社会人出の即戦力でオープン戦から打ちまくって新人最多安打記録を更新して開幕スタメン。が、開幕直後のヒット性の内野安打がエラー判定で一転打撃不振。菅野からはよく打つ。たまに落ちる二軍では打ちまくるものの一軍では準レギュラーだったが守備重視の岡田監督復帰で一転、中野をセカンドに追いやり小幡を抑えてショートのレギュラー獲得。恐怖の8番打者で23年優勝。


00背番号[00]の名選手列伝

ゼロゼロ怪人ルパート・ジョーンズ。日本球界初の00番。メジャーで0番をつけてたこだわりの男(スキンヘッド)だったが、一足早く村山が中野に0番をつけた後だったので00番に。プレイはファーストフライを落としたことしか思い出せない。
遅刻魔亀山努。入団4,5年目で重たい番号から00番に変更して開幕戦からベンチ入り。ちょっと負けてる終盤、オマリーか誰かの代走で登場。9回表にチャンスで打席が回り、見事タイムリーヒット。中村勝広の明らかな采配ミスを救う。調子に乗っていつの間にやらレギュラー確保。眼鏡のヘッドスライディングで一躍売れる。タレントで芽が出なかった双子の弟も売れ出す。走攻守三拍子揃ったうえのガッツプレーで同年の準優勝に大いに貢献。翌年以降はケガとの闘い。包帯だらけで点滴を打ちながら遅刻して鳴尾浜の練習場に現れることも。引退後は遅刻癖と闘いながら、大阪ロマンズや少年野球監督やタレント活動に奮闘。弟はあまり見ない。
近鉄からやってきた内野の補欠米崎薫臣の最後の1年。
ヤクルトで少し活躍した城友博がテスト入団も1年で戦力外。
内野の準レギュラー平尾博嗣(博司)が2番をドラフト逆指名1位ルーキー的場寛一に譲って最後の2年00番。西武に移籍して個性を発揮、チャラ尾となる。
俊足好守でどこでも守れる起用貧乏田中秀太。入団4年目ぐらいに野村監督就任とともにF1セブンに抜擢されてスタメンに名を連ねる。星野になって故障者続出で困ったときには外野でスタメンも経験。主力のほとんどがケガでちょっと休んだ03年陰のMVPを差し上げたかった。04年は鳥谷起用のあおりを受けてとんと出場機会が減り、トレード候補だったが日ハム移籍が新聞にすっぱ抜かれて没。一軍半の代走守備要員だったがたまのスタメンでミス連発。下柳がグラブを投げつけて激怒。引退後スカウトに転身し、獲得した選手には入団会見で「グラブを投げつけないようにします」と言わせる。
ポスト赤星の不器用なセンター柴田講平。城島入団で2番から変更。キャンプ好調の年に紅白戦デッドボールで負傷、出遅れ一軍半。九回裏二死満塁で走者一掃エラーをしでかし自由契約後トライアウトを経てロッテにテスト入団。
上本博紀が4番から変更。相変わらず守備は不安定ながらセカンドのレギュラー奪還。が、盗塁時のスライディングで十字靱帯損傷。以降怪我と闘い引退。
右打ちの内野手が北條と熊谷だけになってしまい、よみうりから内野のユーティリティプレイヤー山本泰寛を獲得。レギュラーメンバーの故障や不調、対左投手のときなどにしばしばスタメン出場するが岡田監督復帰で1年二軍暮らしの後戦力外。
1背番号[1]の名選手列伝
創設期の名プレイヤー伊賀上良平。合宿設立とともに初代寮長兼任。復員後は大映で活躍。
毎日大量引き抜き直後のエース梶岡忠義
吉田義男入団でセカンドにまわり二遊間を固めた白坂長栄
三宅故障後の三塁手朝井茂治
佐野、掛布入団前に後藤とサードの定位置を争った大倉英貴。佐野、掛布の入団で若くして引退。
中日、近鉄で活躍した巧者一枝修平。近鉄時代、筆者が西京極だけで会う顔馴染小学生が試合前に一枝からサインバットをもらった縁で、阪急側から一枝の代打の打席のみ近鉄応援。ピッチャーゴロに終わった一枝だったが、ベンチに戻り際に我々に手を振って応えてくれた。いいやつ。引退後、阪神コーチと中日コーチと毎日放送解説を順繰りに務め、ちょくちょく監督候補に浮上。結局、村山の2回目に落ち着く直前は、一枝監督で決まりかけてたが、会社情報より外部情報が先行する毎度のドタバタを嫌気して固辞。
何を思ったか監督就任時の吉田義男。「一から出直し」と第2次後藤クマさんで最下位のあとに1番で登場。
法政黄金時代の好打者植松精一。プロでは好打者ぶりは発揮されずじまい。
ロッテで日本シリーズMVPの実績を持つ小兵弘田澄男。ジュニアオールスターMVPの藤倉とのトレードで移籍。85年史上最強の2番打者の一人。日本シリーズでは2番DHで登場。西武の緻密なバントシフトをあざ笑う強攻策でヒットを放ち、3番バースの決勝ホームランを呼ぶ。よみうりコーチとしてローズを叱り飛ばして帰国退団に追込んだ陰の功労者。
九州産交でバスの運転手の勤務ローテーションを編成していた野田浩司。第2次村山監督就任時にドラフト指名されてしまい、1番をつけさせられてしまう。村山辞任後は18番に変更して先発に救援に開幕投手にとエース級の大活躍。史上最悪のトレードでオリックスへ。
90年代最高のアメリカ人トーマス・オマリー。「ハンシンファンはイチバンやー」という本当の真実をヒーローインタビューのシメの言葉として人気を博す。他球団がどこもレギュラー不在とか一茂とかのときにサードでゴールデングラブという意外な受賞歴。契約でモメてヤクルトに移籍してMVP獲得。02年から特命コーチとしてジャージでベンチ入り、アリアスの相談相手を務め、03年ようやく発足したファンクラブのイメージキャラクター。
球団職員で入団中込伸。今はカットボールと言う真っスラを武器に99番で92年準優勝などに貢献するが、ヒジを痛めてから1番で再起。巨体を利した若手いぢめで山村や中谷をつぶし、台湾に渡る。
西武で鳴かず飛ばずだった谷中真二が平尾との交換で移籍。帽子をかぶるとオッサンづらだが、ベンチでいつも帽子を脱いでる顔は若い。先発で意外と安定したピッチングだったが星野にリリーフにまわされ不安定。オリックスに移籍してパリーグなら10勝は固いと思われたが、投壊現象に巻き込まれ、楽天になって先発ローテは固いと思われたがあまり出番なし。
04年大規模争奪戦の末早稲田から入団の安田大サーカス団長鳥谷敬。外角速球に間に合わず内角速球に差し込まれるへっぴり腰フォームでこりゃえらいカスつかまされた、と岡田以外の誰もが思うが岡田監督は我慢して起用し続け、年々打力、守備力を向上させ元々よかった選球眼でほぼ15年間不動のレギュラー。藤田平とかの持つ数々の記録を塗り替え衣笠に次ぐ連続試合出場達成。死球による顔面骨折の翌日からも出場して平気でヒットを放つ。最後は矢野に干されてからの引退勧告をけってロッテへ。
浅野のハズレ1位で中大から入団の森下翔太。2割3分台ながらいいとこで打つ勝負強さを1年目から発揮して三番定着。
2背番号[2]の名選手列伝
初代正捕手小川年安。在籍1年で召集、戦死。
戦前戦後の主戦投手藤村弟(隆男)藤村排斥事件の余波を受け広島に移籍。
阪急の名遊撃手本屋敷錦吾。二塁に転向して吉田義男と二遊間を固める。
細身の二塁手野田征稔。2割ちょいの打率ながら2番打者として安藤から定位置奪取。73年のよみうり戦では、9回一死一塁から併殺を取れるボテボテのゴロを二塁に送球せず、長嶋をタッチしに行き、逃げる長嶋を追って併殺を取り損ねる。直後に池田の落球伝説。引退後はコーチ、球団職員を長く務める。
西鉄の強打者東田正義が日ハムを経て移籍。池田にかわりレフトを守る。ラインバック、田淵、ブリーデンの後ろの6番打者として睨みをきかしたが活躍は1年だけ。
死球王竹之内雅史。西鉄太平洋クラウンから田淵がらみの大量トレードで真弓、若菜らとともに入団。バットを肩にかついだ豪快な打撃フォーム。狭いスタンスから左足を大きく踏み出すからデッドボールはよけきれない。85年並木輝男とともに打撃コーチとして優勝に貢献するが、吉田義男と仲間割れして退団。
敬遠球ホームランの柏原純一が日ハムから金銭トレードで86年入団。移籍1年目の開幕戦、逆転のチャンスで低めのくそボールを新ゾーンにとられて見逃し三振。この時点で連覇を逃す。退団後、コーチとして新庄を指導、敬遠球サヨナラヒットの成果を残す。
少年隊のスイッチヒッター大野久。移籍したダイエーで盗塁王。
ロッテで外野にコンバートされてくすぶってた高橋慶彦。中村勝広監督の存在感あるトップバッターの求めに応じ、遠山と交換で移籍。外野守備を習得できぬまま、存在感なく終わる。
野田との史上最悪のトレードで阪急色を一掃したいオリックスからやって来た松永。在籍選手のほとんどが客から愛されるチームにあって、耳、グリーンウェルとともに数少ない例外。
ウェスタンリーグの主軸打者平尾博司。一軍半のまま谷中とのトレードで西武へ。西武では準レギュラー。
ドラフト1位遊撃手的場寛壱。入団以来ずーっとケガとの戦い。背番号ももう後がない99番に変更。03年からウェスタンリーグ連続出場。05年春は一軍開幕目前にしてまたまたケガで、オフには戦力外通告。
立命から入団の藤原通。ウェスタンリーグの中軸のまま05年から関本にかわって44番。
永遠の第2捕手野口寿浩が坪井と交換で日ハムから。第2捕手を長く務め横浜へFA移籍。
蕭一傑1位のときのドラフト2位入団柴田講平。1年目ウェスタンリーグで活躍するが城島入団に伴い00番へ。
魚釣り、麻雀の次に野球が好きな城島健司がアメリカ帰り後最後の3年在籍。金本、新井さんやブラゼルらと重量打線を構築するが2年目以降は怪我との戦いでファーストも守ったりしてから引退。
藤浪晋太郎1位のときのドラフト2位北條史也。藤浪より3年ほど遅れて一軍定着。インサイドを捌ける打撃術でショートのポスト鳥谷ポジション争い一番手に名を上げるが、ダイビングキャッチで脱臼。以後精彩を欠いて年々出場機会が減少。2番は梅野に譲って26番へ。
明日も勝つばい梅野隆太郎がほぼ正捕手となって44番から変更。
3背番号[3]の 名選手列伝
73年優勝争い前後の三塁手後藤和昭。三宅の抜けた穴を埋めきれぬまま掛布、佐野の入団で日ハムへ。
南海からやって来た左腕投手上田卓三。1年か2年ですぐまた南海へ。
よみうりがボイコットしたドラフトで4球団競合のなか岡崎代表が当たりクジを引いて入団の。魔法使い小津と入団記者会見の翌日、小林とトレード。
虎ボルタ中田大活躍のジュニアオールスターでサヨナラヒット、MVPと賞金百万円をせしめた藤倉一雅。ロッテに移籍してイースタンリーグ首位打者。
変化球のキレがなくなった池内とのトレードで大洋からやって来た長崎慶一(啓二)。高木由とともに近藤和江尻中塚譲りのヘンなバッティングフォームの左の好打者。田尾連続敬遠で獲得した首位打者時代のハイアベレージは望めないものの、オールスター以降、代打の切り札に留まらず佐野のレフトの定位置を脅かす。日本シリーズ第6戦1回裏二死満塁、球史に残る逆風を切り裂く弾丸ホームラン。退団後、焼肉店開業。コーチとして復帰後、高校教諭、区会議員など多方面で活躍。
代打の神様八木裕。ポスト掛布の呼び声高く、若くしてサードのレギュラー獲得。オマリー入団、ラッキーゾーン撤廃を受け、外野に転向後も中軸を打ち92年準優勝に貢献。亀新コンビと守備範囲の広い外野陣を形成してチーム防御率を1点は押し下げた。フェンス直撃打球がそのままスタンドに入るホームランを一度は認めた平光が判定を覆し、幻のサヨナラホームランとなる。この試合の引き分けがたたって92年は準優勝に留まる。その後、ケガの回復がおもわしくなくレギュラーを石嶺、桧山らに奪われ代打要員に。ところが4割をくだらない驚異的な代打成功率でいつしか神様と呼ばれ崇め奉られる。それでもたまにはファーストでスタメン4番などで出場し、とくに倉敷マスカットスタジアムで大活躍。惜しまれつつ04年までで引退。
デカい体に似合わぬアベレージヒッター関本健太郎がバースのつけてた44番を脱ぎ捨て05年から。鳥谷起用のあおりで出場機会が減った準レギュラーの一人。出場機会に恵まれない選手を贔屓するがゆえ、贔屓選手が次々と放出されるというますだおかだのますだのいちばんの贔屓選手だったがバントや軽打の技を磨き遊撃から二塁、三塁、さらに代打の切り札と持ち場を替えてしぶとく長く現役を務める。守備も堅実で連続守備機会無失策記録を更新。引退後はますだおかだのますだと番組を持つ。
生え抜きレギュラー野手を増やしたい金本ドラフトで1位指名、会場の客から「え〜っ」と声を上げさせた大山悠輔。1年目途中から頭角を現し四番も務める。金本曰く「品のある」風格で将来の大砲候補として年々打力向上も波があって「春の大山」は小学生の詩作によっても人口に膾炙。新井さん同様ファーストは上手いがサードは…、とくに送球に難あってレフトもやらされるが岡田復帰とともに一塁固定。バットの先をピッチャーに向けるブランコ打法が板についてきて、かつまた初球を無造作に振る悪癖をやめ不動の四番打者に。
4背番号[4]の名選手列伝
スネークボールジーン・バッキー。テスト入団から年々力をつけ、64年村山との両輪で優勝に大きく貢献。甲子園までは自転車通勤。異常な愛妻家ゆえ、伊予狸藤本監督は登板前日に嫁はんに電話して夫婦和合を遠慮してもらう。王に2球続けてインコースに投げたことからバッキー荒川乱闘事件に発展。鉄拳制裁で荒川を流血に至らしめるが同時に指を骨折して選手寿命を縮める。稼いだ金で牧場経営。
浪花の春団治川藤幸三。俊足好守強肩の代走守備要員。レフト線フェンス直撃の二塁打性のヒットをクッションボールを捕るや否や鉄砲肩の送球で打者走者をセカンドで殺すこと度々。準レギュラーまで伸びるがケガで二軍生活逆戻り。ただし、この頃から打席に向かうときは肩をゆすったヤクザ歩きで。いつの間にやら代打成功率が急上昇、守らず走らず代打稼業に専念。敗色濃厚の九回二死、ひょっとしたらという場面でデカい態度で出てきてやっぱり三振するも、ええもん見せてもろたような気にさせてくれる。代打成功率も下がり引退勧告をもらったときに「銭はいらんから残らせてくれ」の名文句で春団治の異名を勝ち取る。一瞬、代打で復活した後はもっぱらグローブも持たない、文字通りのベンチウォーマーとして85年の優勝に貢献。翌年オールスター出場を果たして引退。若いころからキャッチャーが3アウト目の打者でチェンジになった際、キャッチャーが防具をつけてる間、キャッチャーミットを持って出て行って投球練習の相手を務める。結構オッサンになっても。バースに将棋を教える。2年ほど無責任コーチとしてベンチを暖め、退団。シニアリーグ大阪ロマンズでは桜吹雪ユニフォームが最も似合う男。モルツ球団の代打要員に転じつつOB会長を長く務める。
第2次吉田義男監督の3年目からの最弱時代のアフロエースマット・キーオ。強いチームなら20勝はしたであろう孤軍奮闘ぶり。
在籍年数の長さのわりに印象に残らない永遠の一軍半山脇光治。何故かこの人だけ甲子園ではヤではなくマに強勢ある関西アクセントで場内アナウンスされてた。
ウェスタンリーグ不動のトップバッター高波文一。代走守備要員で一時一軍定着もF1セブンなどに押し出されパリーグへ。西武では準レギュラー。
18番を返上した後の藪恵壹が3年4番で最後のひと花を咲かせて渡米。
05年広島からやって来たアンディシーツ。米製戦争映画のどの作品にもソックリさんが一人は出てそうな軍人フェイスでリーグ随一のショートストップだったが、移籍後はもっぱらファーストで日本球界史的にも随一の守備力で貢献。晩年外角スライダーを見極められなくなって駐米スカウトに。
たまにホームランも打つ外国人投手ライアン・ボーグルソンが36番から変更も1年でオリックスへ。
1年からレギュラーの早稲田で主将も務めたウエポン上本博紀がドラフト3位入団。俊足好打の小兵なのに守備不安。レギュラーを獲りかけては故障離脱を繰り返し00番に変更。
立教で主将も務めたイケメン熊谷敬宥がドラフト3位入団。上本とは逆に打撃に課題も代走守備要員として一軍定着。二遊間だけでなく三塁や外野の守備も固める。
5背番[5]の 名選手列伝
打てない時代を支えた4番打者藤本勝巳。ON全盛直前にホームラン王、打点王。62年優勝の打の中心。63年島倉千代子と結婚して成績を下げ、引退後離婚。多くを語らない。
俊足好守の守備代走要員末永正昭。勝負を決めるホームスチールを成功された新聞1面を見た記憶があるが定かではなし。
史上最高の外野守備北村照文。対よみうり千試合シリーズの後楽園で9回裏勝負を決める本塁返球で名を売る。守備範囲の広さ、返球の速さ、球際の強さなどなど、北村の守備だけで入場料分の見ごたえあることもしばしば。バッティングは打撃フォーム固まらぬままなれど85年史上最強の2番バッターの一人。ただし、開幕戦は代走出場で隠し球タッチアウトで鼻から出血。村山の少年隊起用に腐って移籍志願。当時もっとも外野陣磐石な西武に出されてしまう。
北村とのトレードで西武からからやって来た爆笑死球王金森永時。代打でそこそこ活躍するも、フィルダーなき後の一塁を守らされたりして、見てるほうもハラハラ。打撃もひっかけた一塁ゴロばかりになり退団。ヤクルトに雇ってもらえて野村再生工場で代打で復活。
新庄シャーペン宇宙人新庄剛。準優勝の92年、規定打席未満ながら久慈の新人王の次点。中村監督時代は伸び伸びやってたが、鬼平藤田監督になって遅刻して正座させられたりしてオフに引退宣言。数日で撤回。野村監督の差金で投手兼任。キャンプとオープン戦のみ。これで多少打撃に頭を使いはじめる。柏原コーチ譲りの敬遠球サヨナラヒットを槙原から放ち、ヒーローインタビューで「明日も勝つ」と宣言して翌日負ける。FA宣言で地球人には理解不能な交渉を経て、アメリカに渡るが、ダメジャーリーグから日ハムに復帰。引退後顔を変えて日ハム監督(ビッグボス)。
ウェスタンリーグで少し活躍したエバンス。西武で準レギュラーとなるも1年で帰国。
30を目前にしてプロ入り沖原佳典。レギュラー扱いのときは、打てないし、うまいはずの守備でもちょくちょくエラー。控えにまわるとサヨナラヒットやら守備固めで出てきてから猛打賞やら俄然活躍。04年鳥谷起用で出番なく、東北楽天に移籍するやほとんどの得点機にからんでチーム100敗回避の立役者的大活躍。
沖原とトレードで楽天から来た前田忠節が1年弱だけ5番をつけて32番に変更。
右肩手術で快方に向かった濱中治が31番から変更して復活するも1年だけで翌年末オリックスへ。
濱中を欲しいというオリックスに「平野くれるんやったらええわ」と岡田が言ってみたら本当にトレード成立でやってきたガッツマン平野恵一。セカンドのレギュラー争いを制すると赤星の次の二番で盗塁をアシストしつつクリーンヒット連発。外野も兼務するなか二塁手部門でベストナインやダイヤモンドグラブ賞受賞。真弓の上本重用や西岡らの大型補強を前にFAでオリックス復帰。
8番を福留に譲った浅井良の最後の1年。
マートンに続いて当たりの外国人打者マウロ・ゴメス。後にマルテやドリスらドミニカ共和国出身外国人の先鞭。全試合四番を務め打点王。CSでも打ちまくって日本シリーズ進出。毎年キャンプには遅参してたが3年目に初めて初日に間に合ったと思ったら打棒不振で三振王となり退団。
7番を糸井に譲った西岡剛が最後の2年。外野や一塁も守ってしぶとく出場機会を追求するも独立リーグへ。
新スピードスターのように見えてじつは打撃職人近本光司。どうしても左打の外野手が欲しかったらしい矢野1年目ドラフトで藤原・辰巳の外れ外れ1位。オールスターでは新人初の先頭打者本塁打、サイクル安打でMVP。盗塁王獲得、リーグ新人最多安打記録などを塗り替えるが新人王は交流戦期の不調が響いて他に譲る。ルーキー中野に譲った年以外は盗塁王。
背番号[6]の名選手列伝
戦前の凄いピッチャーでバッター、闘将景浦将。タテについていた目で沢村のドロップを打ち崩したという。気に食わないことがあるとあからさまな怠慢プレーもする豪傑。当時の監督の日誌に「景浦、本日もボールを追わず」。戦死。
富樫代表の息子富樫淳。投打にわたり戦後の復興に尽力。
投手時代の田宮謙二郎
阪神戦でノーヒットノーランを達成した真田重蔵が松竹からやって来て2度目のノーヒットノーラン。
最初のころの小山正明
64年優勝の翌々年入団、85年優勝前年引退と、優勝しなかった21年のうちの20年在籍藤田平。1年目から吉田義男をセカンドに追いやりショートでレギュラー。現役前半は華麗な遊撃手で3番までの上位打線。イージーゴロはファーストに緩ーく送球し客をハラハラさせてギリギリでアウトを取る。鉄仮面藤井譲りのどこにも力の入ってない脱力スイングで巧打を連発するが、チャンスで打席に立つと必ずポップフライ。なかなか3割を打てない。(広義の)阪神相撲部屋に所属して現役後半、一塁転向。吉田義男の連続打席無三振記録を塗り替え、イチローに抜かれるまで記録保持。神宮球場でショートバウンド送球を足を伸ばして捕球する際に大怪我。ほぼ1年治療して復帰後6番打者で大ブレイク。悲願の首位打者をシーズン終盤はものもらいで休みがちのなか獲得。それでもチャンスではポップフライ。横浜球場ではそのチャンスのポップフライから柴田島野両コーチの正義の鉄槌事件に発展。その後、安藤による守備固め的起用にやってられんなか、筆者の観戦する後楽園でチャンスにポップフライを打ち上げた後、敗色濃厚のどうでもいい場面で二千本安打達成。安藤留任気配を察して引退を表明するが直後に安藤辞任。二軍監督を経て、中村のあと監督就任。鬼平と化す恐怖政治で新庄が引退宣言。会社の辞任要求をつっぱね深夜に及ぶ交渉の末、解任。子供たちに「かつや」「さだはる」「ひろみつ」と大打者と同じ読みの名をつける。「ひろみつ」は門田の方で落合ブレイク以前。
85年優勝時のルーキーで03年の前々年まで在籍和田豊。優勝決定試合は平田に代打佐野が出た後、ショートを守り震える足で打球処理。第2次村山監督時代に大野、中野と少年隊結成。90年代大低迷時代をチームリーダーとして牽引。よみうり戦引退試合はヒットを打って同点だか逆転のホームインをしたりの大活躍で長嶋勇退試合を打ち消す。引退後は田淵、オマリーら3人いる打撃コーチのひとりや小さい正田の陰に隠れながらの打撃コーチ、内野守備走塁コーチなどを歴任して真弓の後に監督就任。少しのスパイスを加えて優勝を目指すが実績重視の選手起用でいつの間にか鳥谷以外のレギュラー全員補強選手に。それでもゴメス・マートン・メッセンジャー・呉昇桓らの活躍で日本シリーズ進出もあって4年留任。シニアアドバイザー、テクニカルアドバイザーなどの謎の要職を歴任して二軍監督。
内角低目がまったく見えないおかげでサヨナラ押し出し四球などを選んだホワイト。弱点を見破られて1年で帰国。
野村後継路線まっしぐらの広島からFAでやって来たアニキ金本知憲。伊良部、下柳らケンカの強そうな03年補強選手の一人。星野の4番示唆に返事を濁して3番打者として新境地を開き03年つないで打ち勝った優勝に大いに貢献。三宅の連続フルイニング出場記録を、右手に死球を受けた後数試合左手一本で打ちながら更新。04年からは4番に座り、05年MVP。40歳を超えても打ちまくり連続フルイニング出場を1492試合まで続けるが、練習中に藤川俊介とぶつかって痛めた右肩悪化で10年近く守り続けたレフトを葛城らに譲る。その後も代打でつづけた連続試合出場を藤川俊介の盗塁失敗で阻まれる。引退試合では盗塁も決め長いスピーチで現役を締めくくる。3年ほどふらふらした後、6番で監督就任。超変革を掲げ山・横田の1,2番で開幕を迎えるも打撃コーチを片岡に任せたせいか日替わりオーダーで調子に乗れず、2年目改善するが3年目最下位で辞任。一芸に秀でた面白いやつを獲得するドラフト戦略は数年後に奏功する。
8_7背番号[7]の名選手列伝
ダイナマイト打線で首位打者金田正泰。戦後すぐは野球より金になるブローカーとして過ごすが復帰。50年代は主将としてチームを引っ張り藤村排斥運動などを統率後、引退してコーチを経て監督。村山監督就任時にヘッドコーチとして復帰。成績不振で指揮権を返上した村山に代わり監督代行。成績回復後も指揮権を戻さぬまま村山退団で監督就任。江夏と「ゆたか」「おじき」と呼び合う間柄になるが、いつのまにやら冷却。口も聞かぬ仲になり、何ヶ月ぶりかに「どや?」「まぁまぁや」と交わした会話がスポーツ紙1面ネタになる。鈴木、権藤に殴られた73年優勝しかけるが、会社意向を受け、中日戦の上田登板回避。最終戦で負けて王をゲタで殴るなどして荒れる客にスピーカー片手に詫びる。
50〜60年代の中軸打者並木輝男。62年64年の優勝時3番など打つ。第2次吉田義男監督で打撃コーチ。自分が3番を打つことが多かったせいか、3番最強打者説を唱え、3番バース4番掛布の並びに客と「コーチの言うことより4番にこだわる」掛布らを納得させる。
落球伝説池田純一。強打強肩の外野手で、インコース膝元の変化球を決まって空振りするのに、勝負強いバッティングで6番あたりを固める。筆者もラジオで聞いてた73年夏のよみうり戦。九回二死からの黒江のセンターフライを、芝に足をとられて後逸。後に、中日戦上田登板回避から世間の目をそらす意図から、優勝を逃した世紀の落球という伝説が捏造される。引退後も池田ファンを公言してはばからなかった筆者同級生の野球部員Kは京都府大会準決勝でセンターフライを見失う。
太平洋から田淵がらみの大量トレードでやって来た男前遊撃手真弓明信。中西譲りの前に構えたバットを引きながらタイミングをとる眠狂四郎の円月殺法のような打撃術を習得して、まったく打てなかった外角変化球を克服して首位打者。ホームラン王争いにも参加。岡田怪我のときに平田を使いたい安藤監督によってセカンド転向。さらに、岡田を使いたい吉田監督になってライト転向。ライトでも軽快な動きで槙原をライトゴロにしとめたりする。85年は史上最強のトップバッター。日本シリーズでも初球二塁打でほとんど勝負を決める。引退後、近鉄で梨田、小林と男前首脳陣を形成。岡田辞任後監督復帰。城島ブラゼル補強で最強打線をつくるが飄々としたままどうせ判定覆らないと滅多に抗議に行かないナイスミドルっぷりを発揮して士気上がらず勝機を逃す。
ミスターツーベース改めポイントゲッター今岡誠。久慈や和田の抜けた穴を埋めるが、読み打ちが裏目ったときの気の無いスイングとかで野村に干されたりして不遇。岡田二軍監督にお願いして一軍復帰を回避したりしていたが星野が来て復活。高目を取るようになったストライクゾーン変更にも助けられて、03年は内野安打がほとんど無いにもかかわらず首位打者独走。が、死のロード10キロ減量夏バテでMVPを取り損なう。05年は5番起用で打点王独走。指の故障が治らず急速に打撃不振に陥りロッテへ。岡田監督再就任で打撃コーチで復帰。
ドラフト5位指名ながら「4位以下なら社会人」という条件を苦労してクリアして藤川俊介が近大から入団。1年目から頭角を現すも盗塁失敗で代打金本の連続試合出場記録に終止符を打って68番に変更。
ロッテから渡米していたスイッチヒッター西岡剛がロッテ時代と同じ7番で帰国。両リーグベストナインを獲得するも福留と激突して東京ドーム内に救急車を呼び込む大負傷。復帰後はサードや外野も守って出場機会をどん欲にうかがう。日本シリーズでは三塁ゴロまさかのツーバウンド送球で第1戦を締めくくると、その後もまさかの送球ミス、まさかの走塁ミス、最終的にはまさかの守備妨害でシリーズを締めくくる大活躍。故障との戦いとレギュラー争いをしぶとく続けたのち糸井に譲って5番に変更。
オリックスから数々の伝説をひっさげFA移籍の超人糸井嘉男。さすがに大ベテランになって新たな伝説は特に生み出さず右ひざの古傷と闘いながら41歳まで中軸を務める。
一日一善シェルドン・ノイジー。固め打ちすることなくポップフライの合間にヒット(おもにライト前)を放って2割5分。打撃での役立たずぶりを守備でカバー。巨体をナメて進塁をねらう走者を度々強肩で補殺。

背番号[8]の名選手列伝
和製ディマジオ山口政信。球団創設時の俊足巧打の美男子外野手。和製ディマジオの通称は後に松竹の小鶴誠に奪われる。戦後、退団して北海道のノンプロチームに兼任監督として招かれるが愛人同伴の単身赴任
50年代の主戦投手大崎三男。明大時代は後輩の秋山がエース起用されるのに不満爆発、中退してプロ入り。プロ野球ニュースでは無用に汗をかきながら解説。
24番になる前の田淵が認める史上最強打者遠井吾郎
お祭り男山内一弘。小山と世紀のトレードでロッテから移籍。64年優勝時のクリンナップ。引退後数々のチームを監督、コーチとして渡り歩き掛布、落合ら大打者を輩出。教え出したらとまらないかっぱえびせんの異名を誇る。
俊足好守の守備代走要員佐藤正治
江夏がらみの大量トレードで南海からやって来た俊足好守の守備代走要員島野育夫。引退後コーチとして、横浜スタジアムで柴田コーチとともに岡田審判らに正義の鉄槌をくだし、無期限出場停止。翌年解禁。その後、阪神と中日のコーチを交互に務め星野とともに02年復帰。星野の右腕。(02年から左腕は平田)。星野SD就任に伴い現場を離れるが1年だけで05年現場復帰。
俊足巧打の打って走れるコメディアン加藤博一
85年史上最強の2番打者の一人吉竹春樹。野手としてテストを受けに来たが、外野からいい返球するし左やし、というので投手として入団。即野手転向。俊足好守の守備代走要員から準レギュラーへ。ラッキーゾーンを越える本塁打性の飛球を幾度となくキャッチ。田尾とのトレードで西武へ。引退後、コーチとして復帰。三塁ベースコーチとして思い切りの悪さを幾度となく露呈。
本人と客の十年越しの念願かなって田尾安志が西武から移籍。往年の俊足巧打好守の面影無く代打要員なるも年間サヨナラホームランの記録など達成。
92年準優勝の年の新人王久慈照嘉。今牛若二世として球界一の遊撃手となる。筋力アップで打球が飛ぶようになり、それまでのヒットが外野ライナーになってしまい打率を下げる。大豊、矢野らとのトレードで関川とともに中日移籍。中日では星野に干されてた感なきにしもあらずなれど、03年復帰して守備要員なのに打率3割キープ。05年日本シリーズで代走起用も飛び出しアウトを最期に戦力外通告。引退後の内野守備コーチ時代は失策数リーグ最多を改善できず。
ヘルメット西武時代は筆者の家の近くに住んでた佐々木誠
30目前で思い切ってプロ入り沖原佳典。片岡の入団で5番に変更。
日ハムビッグバン打線の中軸片岡篤史がFA移籍。移籍決断直後にフライデーに載ったキャバ嬢かなんかの乳をもんで破顔一笑写真の影響か、1年目は不振で客の目は松永に対するそれになりかけるが、03年故障がちながらそこそこ活躍。以降も故障がちながら忘れられた頃合をみはからって活躍。稼いだ金で実家をリフォームするが真実とは異なる檜風呂の俗説が広まる。引退後のコーチ時代はつねにチーム全体打撃不振。立浪に請われた中日二軍監督ではおそろしく負ける。
本格的に外野手(兼第3捕手)転向の浅井良が12番から変更。金本負傷、桜井不調時などの穴を少し埋めた後、福留帰国に譲って5番に変更。
高卒時ドラフトでゴネて日生経由で中日から渡米していた偶然だぞ福留孝介が帰国入団。晩節を1,2年汚して終わりと見えたのに和田監督が粘り強く起用、2年弱のリハビリ期間を経て打ち方を思い出すしてもう一花咲かすや長きにわたって中軸の厳しいベテランとしてにらみをきかす。最後中日に復帰してさらに2年頑張って引退。
矢野がドラフト1位で引き当てた佐藤輝明が近大から入団。1年目から大ベテランみたいな振る舞いで新外国人並の打棒発揮。横浜スタジアム場外ホームラン含む24本塁打を記録するが高目釣り球に手を出す悪癖治らず新人王は他に譲る。
10_9背番号[9]の名選手列伝
タイガースの生い立ち明治のスラッガー松木謙治郎がノンプロを経て入団。初代主将。空前の1番打者。腕相撲球界一でついたあだ名が仁木弾正。兼任監督を経て招集で退団。戦後、鉄工所を経営するが毎日大量引き抜き事件の窮地に監督として復帰。藤村とともに退場となった大阪球場事件で退団。OB会発足時に阪神球団史「タイガースの生い立ち」執筆。佐野、掛布入団直前までの球団史は当連載コラムの主たるタネ本であり、筆者小学生時代のバイブル。
戦前戦後の主戦投手藤村弟(隆男)。藤村排斥事件の折に退団。
ダイナマイト打線の8番打者長谷川善三
球団史の中でも珍しい慶應から入団した安藤統男。吉田三宅鎌田本屋敷藤田平ら名選手ひしめく内野で、永遠の準レギュラー。1年だけほぼフル出場した年は打率ベストテン上位でオールスター出場、ベストナイン。その後すぐ、野田、中村勝らにレギュラーの座を追われ、引退。コーチを経てナイスミドルとなった82年中西の後を受けて監督就任。小林、工藤、伊藤の中3日ローテーションで11連勝、次の試合から9連敗。岡田と藤田平の起用に悩んで白髪を増やして辞任。
三宅の後、長くレギュラーが固まらなかったサード候補として中大からドラフト1位入団の佐野仙好。が、サードのレギュラーはドラフト6位の高卒同期、掛布に譲る。外野に転向して春先から3割打ってレギュラー確保に見えたところで川崎球場フェンス激突事件で瀕死の重傷。奇跡の生還後、毎年現れる新外国人ライバルとのポジション争いに打ち勝ちファーストかレフトでスタメン出場。レフト線のフライ打球は必ず帽子を飛ばして捕球した。初代勝利打点王。チャンスに強いいぶし銀のバッティングで優勝決定試合も9回同点犠飛。引退後長くスカウトとして貢献。
ウェスタンリーグの正捕手北川博敏。移籍した近鉄で代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームランを放ち、パリーグを代表する大打者に。
若いのに苦労人モンキー藤本敦士。高校野球は自分のエラーで敗退。大学野球は中途退学。野球のできる専門学校で滋賀県一の遊撃手と評されノンプロを経てムース野村の目にとまり入団してF1セブン形成。数少ないモノになったF1セブンで03年恐怖の8番打者。吉田藤田平真弓平田久慈と、阪神のショートは日本一のショートだった球団史的には守備に多く課題を残していたが、03年後半からうまくなりだすや04年鳥谷入団でセカンドにまわされる。関本らとレギュラー争いを繰り広げてヤクルトにFA移籍。引退後しばらくしてコーチ復帰。小さい三塁ベースコーチとして高代を後継する。
赤毛の安打製造機カミサマハワタシノチカラデスマット・マートン。朝飯前にヒットを打ちまくって最多安打、首位打者など獲得。メモ魔で研究熱心、信仰心も強いのに球審との戦い、本塁クロスプレー時のボディアタック、アウトカウント間違えてスタンドにボールプレゼント、アイドントライクノウミサンの洒落が通じないなどで物議をかもして存在感を高める。晩年アウトコースの球審との戦いが高じて帰国。
男なりやこそ最初の金本ドラフト当たり1位山俊。実力拮抗のため1勝1敗で第3戦にもつれることが多かった東京六大学野球で最多安打の記録を更新して明治から入団。骨折の影響で1年目は二軍安芸キャンプ。金本片岡の指導を受けず開幕1番起用で初回いきなり初打席初安打。その後もヒットを重ね球団新人安打数で坪井を上回り新人王。2年目金本片岡の指導を受けたせいか飛距離が伸びるがよかったのはオープン戦までで以後課題の守備力向上に反比例して打撃不振。代打逆転サヨナラホームランやサヨナラのピンチで背走キャッチなどでたまに目立つ一軍半時代を経て二軍定着。

背番号[10]の名選手列伝
初代ミスタータイガース藤村富美男。球団創設時からの凄いピッチャーでバッター。投手陣充実後はサードに専念。戦後、青バット、赤バットに対抗する物干し竿でホームラン量産。ダイナマイト打線の四番として君臨する。毎日大量引き抜き事件で低迷するチームにありながらMVP獲得。レコードも発売し、当時あった開幕前の前夜祭ではステージで歌声を披露。このときばかりは普段飲まない酒を一杯ひっかけて舞台に立つ。わざと空振りして大尻餅をついておいて、同じ球を狙って本塁打するなどの田舎芝居やスタンドプレイなども得意。兼任監督になって藤村排斥運動をチームメイトに起こされてしまう。三塁ベースコーチに立って指揮、ここぞという場面では「代打、オレ」と審判に告げて打席に向かう。引退後、必殺シリーズで元締めの虎を好演。そんなわけで10番は永久欠番。