名選手列伝(03/07-10+05/11)
0-10
11-20
21-30
31-40
41-99

MagicNumber
優勝
21背番号[21]の名選手列伝
池田の前のセンター山尾孝雄
上田、谷村、山本和と当たり続けたドラフト1位に終止符を打った五月女豊。芽が出ぬまま太平洋を経て大洋で中継ぎ。ライオンズ時代、何故か筆者自宅前に出現。「太平洋の五月女さんですか?」という筆者の問いかけにうなずく五月女だったが、当時はクラウンライターライオンズであったと直後に気づく。
阪急から1年だけ来たガソリンタンク米田哲也。翌年近鉄に移籍して350勝達成。
ドラフト会議で司会のパンチョが「性はセックスの性」と読み上げた益山性旭。1年目に王、張本連続見逃し三振というV9暗黒時代にはあり得なかった快投で審判団の変化を天下に示す。年に1回だけの完投勝利を4,5回やって打撃投手に。
南海からやって来た山内新一。何故か先発ばかりでリリーフをしない登板スタイルで連続先発の日本記録達成。2年だけの在籍なれど、5回まで投げて後は福間−山本和で逃げ切ること度々。
清原のハズレ1位、金さん遠山昭治。1年目9勝で新人王候補の活躍も2年目以降低調で高橋慶彦と交換でロッテへ移籍して一塁手。ロッテ解雇後テストに合格して復帰。(いっしょに受験したマイク仲田は不合格)サイドスローの投手に戻り中継ぎでカムバック賞受賞。とくにゴジラ松井キラーとして活躍。野村監督時には、相手打者に応じて葛西と交互にファーストを守り逃げ切る継投策葛西遠山スペシャルを演じる。
打線低迷時に久慈とともに何度もノーヒットノーランをされるピンチを救った関川浩一。捕手として力量不足だったが、中日移籍後外野に専念して優勝。その後楽天。
山本和似の知的なサウスポー吉野誠。03年日本シリーズでの好投で評価を上げるが、以後さっぱりで1イニング64球の記録などを残し浜中とともにオリックスへ。
1型糖尿病を患いながらも関大からドラフト希望枠で入団のココリコ岩田稔。球筋の定まらない日本人離れした汚い速球と鋭いスライダーをはじめとする多彩な変化球で3年目にブレイク。10勝したのはその年だけで激しい浮き沈みながら消えそうで消えないマジックみたいに15年の在籍で日本シリーズや国際大会でも活躍。
27番と46番を経て晩年ウェスタンリーグでタイトル争いをする伊予ゴジラ秋山拓巳
23_22背番号[22]の名選手列伝
毎日大量引き抜き事件、藤村富美男が衰えた後、四番を務めた田宮謙二郎。当時あったFAのような「10年選手」で大毎へ移籍。長くOB会長を務めながら、台湾で監督をやったり市会議員をやったり。
すべてを勝利に長嶋の8本を倍増以上の22本で東京六大学ホームラン記録を塗り替えた田淵幸一。ドラフトで意中の球団に入れず泣く泣く入団。1年目から22本塁打で新人王。球界史上最高に高々と打ち上げた打球が浜風に乗ってレフトポールを巻くホームラン打球の美しさからホームランアーチストの称号を得る。筆者が野球を見始めたのはちょうど頭部死球で休んでる間。四番打者と言えば「遠井」だった印象を復帰後一瞬で吹き飛ばす。いいところでホームランを打つと必ずねじり鉢巻などをした客が一人か二人飛び出し、三塁から本塁まで併走して球場係員に取り押さえられる。
病気治療薬の副作用などでぶくぶく肥りだし、江夏、遠井らと阪神相撲部屋を結成。動きが緩慢になり、パスボールを追わない、キャッチャーフライを追わないなどを追及される。筆者は観戦試合でまさにパスボールを追わない場面を目撃したが、そのときは淡口の足に当たっていたようにも見え、デッドボールを主張した方がランナーの進塁を食い止められる頭脳プレイと見たが、一般的にはそんな風には受け止められない人柄。シンキングベースボールのブレイザーによって放出。小津社長の深夜のトレード通告に泣く泣く移籍。星野監督就任時に打撃コーチとして復帰、濱中にうねり打法を伝授する。

田淵の法政の後輩木戸克彦。レギュラーを獲得した85年に優勝。ピンチ時にはベンチの秋山−土井の明大バッテリー・土井淳コーチの出すサインを投手に伝達していたと噂される。近眼の伊藤のために指にマニキュアを塗ってサインを出す。中西、平田とバラエティ担当NHKとして宴会を盛り上げる。平田とのコンビは高橋源一郎のポストモダン小説「優雅で感傷的な日本野球」にも登場。平田ともども球団から足を洗えず、コーチを歴任。二軍監督で度々優勝も05年オフ、昔ならスポーツ紙を賑わすだろう島野二軍監督就任に伴う降格人事を飲まず退団。
一人もモノにならなかった90年代高卒ドラフト1位の一人中谷仁。中込の投げた携帯電話を、ふだんキャッチャーミットを使っていたせいか、素手で捕球できず目に受け失明の危機に瀕する。重い背番号に代えて、02年公式戦出場も1安打のみの打率0割台で楽天移籍。野村再生工場で1年だけ少し活躍。引退後高校野球監督に就任して甲子園帰還。
未来の主軸候補喜田豪は早々に重い背番号に変更。
怪我を恐れないファイトとどこでも守れる器用さを持ちあわせたキンケードが来日するも怪我でほとんど使えず。
名前にちなんだ92番から変更の藤川球児が05年大化け。速球王山口コーチの指導で無駄な膝のためをやめた独自の快速球火の玉ストレートを習得、風船を膨らませてる間によく打たれた6回裏や7回表を完全に締める。ジェフウィリアムス、久保田と磐石のリリーフ陣JFKを形成。セットアッパーの分際でMVPポイント第3位の大活躍。クローザー転向後も10連投などの大活躍の後米国で肩・肘を休ませ、四国アイランドリーグを経て復帰。
藤川渡米期間のクローザー石仏呉昇桓。クライマックスシリーズでも石直球を投げまくって2位から日本シリーズ進出。2年の在籍でアメリカを経て韓国帰国。

背番号[23]の名選手列伝
台湾から裸足で全国中学野球大会に来て大活躍、よみうりを経てやって来た呉昌征。ピッチャーでノーヒットノーランの偉業を達成するも、おもに中堅手としてダイナマイト打線の1番打者。毎日大量引き抜き事件で毎日へ。
麻の豊田、木綿の広岡の上を行く絹の吉田、今牛若丸吉田義男。立命館を中退して入団するや1年目からレギュラー。しかし、テレビ中継の滅多になかった時代、「阪神に就職した」と言うと駅員か車掌をやってると思われる。20年近く1番ショートを守り続け、62年64年優勝。その間にチームは村山閥と吉田閥に分かれ、村山監督就任をもって引退。関西テレビの解説などをして満を持して75年に監督就任。優勝争いをするも、吉田派で村山監督就任時にトレードを志願したヒゲ辻ヘッドコーチと仲違い。ヒゲ辻にどケチ暴露本を出版される。江夏も放出。85年、2回目の監督就任時に「一丸野球」で優勝。が、2年目以降、米田ピッチングコーチと仲違いして後楽園遠山メッタ打ち続投事件、報道陣と険悪になり「カサで突いたろか」事件などを引き起こす。その後、第2次村山監督就任時に村山と歴史的和解。フランス代表監督を経て3度目の監督は久慈・関川を出して獲った大豊がサッパリで成績は上がらぬものの、とくに問題は起こさず、大阪ロマンズ監督へ勇退。そんなこんなで23番は永久欠番扱い。
24背番号[24]の名選手列伝
ダイナマイト打線の二塁手本堂保次毎日大量引き抜き事件で毎日へ。
仏のゴロー遠井吾郎。「日本野球史上最強の打者は?」という雑誌記事の問いに田淵をして「遠井さん。朝まであれだけ飲んで打てる人を他に知らない」と言わしめた酒豪打者。田淵死球欠場時に四番を務める。鎌田、吉田、三宅の名手ぞろいの内野陣の一塁を守るが、遠井のへんにフライが上がったときの緊張感には比類するものなし。球界一の鈍足でありながらオールスターでランニングホームランの伝説を残す。第二次後藤クマさん監督の1年だけバッティングコーチを務めるが「別に何もしてません」と本人曰く。退団後、大阪でスナック「ゴロー」経営。その後、郷里の山口県でスナック「ゴロー」を経営して05年逝去。
福間全盛期に第2の左の中継ぎ佐藤秀昭。日本シリーズではピンチだけ残して降板。移籍した近鉄で1年だけ大活躍。
入団4年目ぐらいに藤田監督に四番に抜擢されるも、その後10年近く四番打者になりかけ中の悠久の若虎桧山進次郎。再三のサードコンバートを断固拒否して外野の定位置争いを毎年繰り返すものの、03年は春から一塁でスタメン。それでも、ミットは使わず外野用のグローブで一塁を守るという草野球では当然の守備スタイルをプロでもやってのける一徹者。左中間のキューピーマヨネーズ看板に打ち込むホームランを持ち芸とするが、選手会長就任後は自覚と責任のなせる業か、つなぎに徹する。05年はお笑い外国人スペンサーとの併用も優勝決定試合、代打で勝負を決めるタイムリーヒット。晩年は代打の神様となり都合22年間在籍。13年クライマックスシリーズ白旗代わりの代打起用でホームラン。これを最終打席に引退。
ロッテの横田の子横田慎太郎。金本超変革でオープン戦首位打者争いを経て開幕2番抜擢。翌年春季キャンプから消息不明。数か月後脳腫瘍治療中と公表される。緩解後育成契約となるも視力戻らず引退。引退試合で奇跡のバックホームの伝説を残し23年逝去。追悼試合で同期入団の岩貞・岩崎が八回九回を締める。
ヒゲのスイッチヒッターロハスJr.。左打席ではあまり打てないが、右打席ではもっと打てないのに2年在籍。
2人目のケラーBケラー。キャンプから調整不足を不安視されウェスタンリーグでも2,3試合投げただけで消息不明状態に。6月肘の検査で帰国のニュースでようやく所在がわかり、7月再来日直後契約解除。
26_25背番号[25]の名選手列伝
眼鏡のスラッガーとして六大学の人気者、後に遠近両用眼鏡を世に広めた別当薫。右翼手でダイナマイト打線のクリンナップ。入浴時にフリチンの藤村富美男が頭をまたいだことにキレて毎日大量引き抜きで毎日移籍という俗説があるが、本人は否定。
62年優勝時の正捕手山本哲也
51番になってエース級の活躍をする前の古沢憲司。高校を中退して入団。あだなのバーディは、入団時虎風荘にいたバーディという名の犬に由来するという説が有力なれど、ゴルフで言う「パーの下」説も捨てがたし。
亜細亜大出と思えぬ知的な容貌で先発に救援に大活躍した山本和行。一年間のほとんどをリリーフで15勝してチーム勝ち頭みたいな現代の野球では信じられない登板形態。阿久悠作詞の大ヒット曲「サウスポー」のモチーフとなる。ただし、魔球というほどの決め球はなく、インサイドワークとフォークボールで王とかを翻弄。
六大学で法政全盛期のエース猪俣隆。巨体を持て余しながらも年に2,3試合は大好投。後にアメリカですし職人。
02年田淵の指導でうねり打法を習得して一躍四番の座を獲得した濱中おさむ。ケガに泣く野球人生は師匠ゆずりかと思われたが「25番は(優勝直前に怪我で休んだ山本)和さんのイメージがある」という岡田監督の発案で31番に変更。
とても使い物になりそうな感じがしない前川勝彦が近鉄から移籍。1試合だけ先発したあとはおもにウェスタンリーグ。
打者の手元でくくっと曲がるスライダーの魔術師渡辺亮。3年目から12番に変更。
広島から涙の会見(「どこで覚えてきたのでしょう?あの猿芝居」(金本談))FA移籍でやってきた新井さんこと新井貴浩。1年目前半打ちまくって首位独走に貢献した後、五輪で腰椎骨折後の後半大失速で岡田辞任。その後も打点王併殺王失策王の三冠獲得など役に立ってるのか立ってないのかわからない在籍7年で自由契約。広島復帰後MVP、後に監督。
その新井さんと同じ駒沢大からドラフト3位入団の江越大賀打撃のないスポーツなら何でも一流だっただろう身体能力で代走・守備固めなら超一流。低めの変化球を見極められずに当たったら飛ぶ打撃力を滅多に発揮できないまま新庄に請われて日ハムへ。
その江越とのトレードで日ハムからやってきた速球破壊王子渡邉諒。4月に1試合だけ東京ドームで活躍したが、まだあまり破壊していない。

背番号[26]の名選手列伝
小山・村山時代の直前からスローカーブを武器に準エース級の渡辺省三。引退後、九州担当スカウトとして新庄ら名選手を獲得するも謎の転落死。
阪急からやって来たポパイ切通猛。桑野の後の左の代打の切り札。筆者が観戦した西京極のウェスタンリーグ阪急−阪神戦では阪急の4番打者として決勝ホームラン。この試合で、遠征に連れて行ってもらえなかった佐野がサードで大トンネル。
代走での起用もたまにあったゾウさん工藤一彦。開幕投手も務めるようになるころには、代走要員からははずれる。巨体を持て余し気味のまとまった投球フォームからフォークボールを繰り出し、安藤監督の11連勝時には小林、伊藤と中三日ローテーションで先発して肩を痛めるも頑丈なのですぐに復活。
東北球界随一と謳われて入団の竹内昌也。前髪とともに薄い印象しか残さずパリーグへ。
ハンセルとの見分け方がわからないまま登板機会に恵まれずウェスタンリーグ連覇に貢献して帰国したカーライル
03年自由枠ルーキー江草仁貴。怪我を克服した05年初勝利を上げると裏の磐石リリーフ陣HESの一角として、ロングリリーフや敗戦処理に活躍。フォークボールが低く行きすぎてワイルドピッチ連発の悪癖を日本シリーズでも披露。
敵より故障との戦いが長かった歳内宏明。球団職員への転身を固辞、独立リーグを経てヤクルト入団。
台湾の大学から入団のサウスポー呂彦青(ルー・イェンチン)。一軍登板なく帰国。
2番を梅野に譲った北條史也

27背番号[27]の名選手列伝
ソロムコとのトレードで毎日からやって来た若生智男。村山、江夏らの陰で地道にきっちり仕事をした東北人イメージの典型。安仁屋とのトレードで広島へ。引退後いろんなチームでピッチングコーチとして地道に働きご子息が東大合格。
榊原とのトレードで日ハムから来たアンダースロー宇田東植。1年中継ぎを勤めてヘテタイガースへ。
その全盛期が木戸の全盛期と重なってしまいレギュラーになることなく終わった嶋田兄。カベ(ブルペン捕手)を経てブルペンコーチ。
92年準優勝の正捕手山田勝彦。打撃素人級など決め手に欠けて毎年レギュラー争い。打撃開眼するも1年だけで新勢力に押され日ハムへ。パリーグでは第2捕手を務めコーチ。
日ハムからやって来たどこでも守れる馬面捕手野口寿浩。04年は鳥谷起用のあおりで出場機会が激減するが、腐らず2番に変更した05年ときたま好リード。
ドラフト自由獲得枠で入団の即戦力正捕手候補だった岡崎太一。数年二軍暮らしの後27番を譲って57番に変更後たまに一軍。ウェスタンリーグではいろんところを守って16年在籍。
短髪白髪のアッチソン。先発で一息ながらリリーフに回って2年目はリーグ最多75試合登板のタフネスぶりを発揮するも帰国。
伊予ゴジラ秋山拓巳。遠山以来高卒ルーキー無四球完封など1年目後半だけで4勝してその打棒とともに期待が高まるもぱっとせぬまま7年過ごした後半はウェスタンリーグの大エース。46番に替えた17年にブレークして12勝。
前田大和FA移籍の人的保障で大洋(当時すでにDeNAに改称)からやってきた尾仲祐哉。おもにウェスタンリーグで活躍してヤクルトへ。
大学・社会人を経て同期入団の佐藤輝とともに1年目からベテランの風格を醸し出していた伊藤将司。右手グローブを高々と上げる変則投法から多彩な変化球を繰り出し安定的に先発ローテーションを守るが毎年どっかでちょっと休むんで規定投球回若干未達も3年目に達成。
28背番号[28]の名選手列伝
年間401奪三振、オールスター9連続奪三振など宇宙最大級の奪三振王江夏豊。ソリトン、YOUの前身教育番組「若い広場」司会で、昔は日本に一人しかいなかったスポーツライター山際某のおかげで日本シリーズ21球伝説が有名なれど、南海を経て広島に行ってからなので、筆者はむしろ近鉄を応援してたかも。いかにも近鉄沿線に多数いそうなルックスの石渡の表情が忘れられません。京都の名門洛星中学の入試面接で「いま、君がいちばん関心のあることはなんですか」という質問に三田寛子を輩出した七条第三小の井村某は「江夏の仕上がり具合です」と回答して合格。また、いまわし部族創設メンバーのひとりカッパ河原は大学卒業後、歯科医となり大阪刑務所に週一アルバイト。「江夏を診察できないか」と毎回そわそわしながら往診に赴くもどうやら江夏は静岡にいたらしい。江夏とその時代の詳しくは後藤正治著「牙」で。
江夏がらみの大量トレードで南海からやってきた長谷川勉
虎ボルタ中田良弘。81年、新人王候補として大活躍。オールスター前の中日3連戦で3連投約6イニング1勝1セーブ。翌日のジュニアオールスターでも3回か4回投げて勝利投手で最優秀投手賞。MVPはサヨナラ安打の藤倉に譲る。が、直後に肩を壊して、以降休み休み85年まで5年がかりで18連勝。テンポのいいピッチングで打線の援護を数多誘発。翌年から中4年休んで90年10勝でオールスター出場。その後、また中4年ほど休んで復活かと思いきや引退。
03年、そろそろ復活かパリーグかの瀬戸際だった福原忍が復活して05年右のエースも勝ち星には恵まれず04年の10勝15敗に続き05年8勝14敗で2年連続リーグ最多敗戦。晩年はリリーフに転向。14年から2年連続最多ホールドを獲得して引退、コーチへ。
伸びるストレートで金本時代に先発ローテで最多暴投・最多与四球のノーコン小野泰己。22年オープン戦最終戦、九回二死からの登板で14球連続ボール、押し出し後サヨナラ暴投を最後に在籍5年でオリックスへ。
30_29背番号[29]の名選手列伝
明大出の大型捕手ヒゲ辻。近鉄、大洋を経てダンプ辻とのトレードで復帰。引退後、パンツマンなどの芸能活動。第1次吉田内閣でヘッドコーチ。モメて退団後は「タバコの1本1本に鉛筆で「ヨシダ」と書いてる」「水を1滴ずつ出して水道のメーターを回さずに、1日がかりで風呂の湯を張る」など吉田義男のケチっぷりを暴露。
雨で開幕戦が1日延びなければルーキーで開幕4番の可能性もあった望月充。ケガの田淵が復帰して5番。結局、打ったのはその年のオープン戦だけで、江夏とともに南海に移籍。
江夏との大量トレードで南海からやってきた江本孟紀。当時は珍しかったヒゲで長髪の野球選手。古沢とエース争いをするも例年12勝14敗6セーブぐらい。先発も抑えもの大車輪のようでもあり中途半端のようでもある起用にキレて「アホやからでけへん」発言で即引退
ブルペンエース福家雅明。現在はTVディレクター。
85年優勝決定試合ウィニングボール捕球の渡真利克則。後に審判。
肝炎を患いながらレフトを守った石嶺和彦。パリーグではDHで打ってたのだが。
98年入団後遊びには金を使わず、練習以外はもっぱらゲームで体を休めて02年からエースの奪三振王、03年は顔面スクイズを決めた、だっぺ井川慶。05年は大一番でことごとく敗戦も大リーグ希望は変わらず07年渡米。NYヤンキースなどに在籍しつつアメリカに将棋を広める。
虎ドラフト希望枠入団も毎年ちょっとだけ一軍に顔を出す9年を過ごして打撃投手に転身したサウスポー小嶋達也
NYメッツ時代と同じ背番号29が空いてたキャンベル。打撃振るわずロジャース緊急獲得。
肘・肩の違和感なければ大エースに成長するはずの高橋遥人。22年手術で24年復活予定。

背番号[30]の名選手列伝
第2代監督石本秀一以下、昔は監督の背番号。とはいえ、明大−大連実業から入団の初代主将・怪力松木謙次郎は選手兼任監督。兵役、鉄工所社長を経て毎日大量引き抜き事件のあと、兼任監督で復帰。
戦前戦後の兼任監督、七色の変化球・サンデー若林忠志。会社とモメて主力とともに毎日移籍。トラのエンブレムは若林が在籍したハワイの高校のマークに由来する。
明治から島岡監督の「おまえがプロでやれるか」の反対を押し切って入団の牛若丸二世・ミッキー平田勝男。ベースを踏み越えてからの捕球も審判の目をだまくらかし幾度と無く実現不可能な併殺を完成させる。中西、木戸とのNHKで宴会を盛り上げる。星野の下で監督付広報を務めたり、ベンチを明るくするヘッドコーチ、二軍監督などを歴任して矢野の後監督起用案も岡田就任でヘッドコーチ。
名前にちなんで92番に換える前の藤川球児
03年から無名の常盤大からやってきた超人ハルク久保田智之。トルネード投法に磨きをかけて05年クローザー起用。JFKの一角をなしよく打たれながらなんとか凌ぐ。ロングもいけるので同点にされても延長まで責任を持つ。優勝決定試合も1点取られてから胴上げ。子どもをかばって右手骨折の不遇を乗り越えセットアッパーで最多登板の新記録達成。
新日鐵住金鹿島の横山ドラフト1位の2位で新日鉄住金鹿島から入団の石崎剛。呉昇桓同様の石直球で中継ぎを務めるが右肘手術後ロッテへ。
石崎剛とのトレードでロッテからやってきた高野圭佑が2年在籍後台湾へ。
上武大から2020年大当たりドラフトの3位で入団の大型右腕佐藤蓮。2年で育成契約、130番に。
北海道屈指の高卒左腕門別啓人。05年優勝決定後の初先発試合で達川が暴走解説。